「悲嘆の門」読了

振り返ります。

「悲嘆の門」を読みはじめ、「英雄の書」との関連例に気付き、読みかけの「悲嘆の門」をいったん止めて、「英雄の書」を読むことにしました。

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「悲嘆の門」と「英雄の書」

「悲嘆の門」と「英雄の書」の関連性
宮部みゆき「悲嘆の門」、上中下の3巻のうち、上中と2巻まで読みました。たしかに、読みはじめから気にはなっていた。もともと、同じく宮部みゆきさんの「模倣犯」みたいなサスペンス系かと思って読みはじめたんだけど、動くらしいガーゴイル像が出てきて、...

そして、もう一度「英雄の書」を読みはじめました。
初めて読んだときは、よく意味がわからず、宮部みゆきさんの作品の中でも、イマイチだった本に分類してたんですが、もう一度読み直したら、最初よりも宮部ワールドの概念が理解できるようになって、感動した本に変わりました。笑

「悲嘆の門(上)」はこちらからです。

再読「英雄の書」

再読「英雄の書」
はぁー。読み終わったー。なんで、数年前、初めて読んだときは、この本のおもしろさがわからなかったんだろう?ということで、感動のあまり、この記事のURLは、「eiyu-no-sho」で取り直そう!と思ったんですけど、もともとは、「悲嘆の門」から...

その後、「悲嘆の門」も、上中下巻の未読の下巻からでなく、せっかくだからと、上巻から読みはじめたので、今回は、「悲嘆の門」からはじまって、かなり長く宮部ワールドに浸っていることになりました。

「英雄の書(上巻)」はこちらからです。下巻もリンク先にあります。

「悲嘆の門」の読了後

実は、だいぶ前に読み終わってました。

そのあとに読む予定で用意していたものが、十二国記シリーズとしゃばけシリーズで、これまた、どちらもかなり独自の世界観の強いストーリーでして(笑)、どちらのワールドなら馴染みやすいか考えた結果、のほほんワールドのしゃばけシリーズでなはく、十二国記シリーズにしました。

とはいえ、そんな心配したのも束の間、読みはじめたら、あっという間に、十二国記のワールドにズボズボでした。笑

ま、どちらのシリーズも独自の世界観が強すぎるので、それ以前の世界観に引きずられる心配は無用ということでしょう。
(自分の単純さがゆえ、ではなく、それぞれの作品の世界観がしっかりと出来上がっているから、我々、読み手はページさえめくればいい、ということなんでしょう)

ということで、「悲嘆の門」→十二国記シリーズの「図南の翼」→しゃばけシリーズの「おおあたり」まで読み終えて、現在は、ふたたび十二国記シリーズのシリーズゼロ「魔性の子」を
読みはじめたところです。

「オススメの本」カテゴリーがだいぶビハインドしているので、忘れないうちに、キャッチアップできるようがんばります。

※ 今回リストアップした本は、近いうちに感想を書くつもりですので、そのときにリンクします。

「悲嘆の門」の感想

やっと、「悲嘆の門」の話に戻ったぞ。笑

この「悲嘆の門」のテーマは、「言葉」でいいかな?
「ことば」と、ことばの源となっている意識的であれ、無意識であれ、その「感情」、、
と書きながら、自分でもよくわからなくなってきたぞ。笑

ただ、けっきょく口には出さなかったとしても、その「思い」は存在するし、残るわけだし、最近のネット世界の中では、深い意味や意識をともなわなくても、何気に気軽に、書き落した
(ここね、なんて表現したらいいんだろうね?)言葉は、ネットの世界から永遠に(一生以上…)消えないんだよね。

なんて書くと、ついこの間のドラマ「3年A組 ―今から皆さんは、人質です―」でのテーマとも少し被っているのかな?

これは、SNSなんかを使う人だけでなく、PCやスマホのネットワーク機器を使う人は、みんな意識してないといけないんだと思う。
ま、自分もちゃんと意識してなきゃいけないなーと思いました。

「悲嘆の門」が教えてくれたこと

たぶん、どの物語もテーマの根本には「生と死」があるんだと思う。
とても身近で、でも解明されてないから、ひとりひとりがどこかに自分が落ち着く「答え」があるんじゃないかと思って、本という「物語」の中に答えを探しに読書するのかもしれない。

十二国記シリーズでは、荒れ果てた国においては、人の命に重きは置かれていない反面、国を統治する人たちは、半永久的な命を得ていたり、、

しゃばけシリーズでも、寿命が何千年も続く「妖(あやかし)」たちとその何十分の一しかない「人間」の対比があって、ときどき、その虚しさを認識させられるストーリーが挿入されていたり、、

そして、「悲嘆の門」では、メインストーリーの恐ろしい怪奇事件のコントラストで、幼い子の亡くなったママはどこにいるのか、というサブテーマが流れていきます。

この物語で示された答えのひとつは、言葉なり意識なりは言葉にしなくても、意識もしなくても、そこにあるということだと、自分は解釈しました。

死後の世界観とか宗教観とか持ってないと、「死」というものの解釈に悩んでしまうこともあるかと思います。

一昔前には、「私はお墓にはいません♪」なんて歌もあったし、「天国」の「ヘブン」って、日本人の概念じゃないよね?とか、「あの世」もそうだし、「お空」もそうだし、、いったい、どこだろう?って。笑
プラス、仏教?儒教?、、生まれ変わりとか輪廻転生とか。

でも、幼い子を残したまま亡くなってしまったママも、学校でいじめにあってる娘を思う母親も、我が子を思う気持ちは同じように、そこにあるんだということ。

この「悲嘆の門」で、そんなふうな解釈、考え方を得られたことがいちばんよかったと思っています。

「悲嘆の門(中)」と「悲嘆の門(下)」はこちらからです。
上巻もリンク先にあります。

「コウタロウ」も「よかったよねー」なんて一言では片づけられないけど、けっきょく、生きていくということは、そういった言葉や感情の「残滓」と一緒に生きていかなければならない、、ということなんでしょうね。

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